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高麗瓦を眼前にして



 ある日、我が家の小さな倉庫を片付けていたら、ビニール袋に入っている数個の小さな古瓦片を見つけた。

 この古瓦片は30年位前に浦添城跡で散策していたとき、瓦に羽状の線が見えたので、もしかしたら高麗系瓦かも知れないと思って拾ってきたものである。

 羽状の模様の古瓦なら、当時、同所でいくらでも転がっていたのでそれほど珍しくなかった。多分その瓦片もその一部だろうと思っていた。

 ところが、倉庫から取り出した古瓦を洗っていると羽状の文様の中にわずかに文字らしきものが見えた。よく見ると「癸酉年高麗瓦匠造」の「高」の部分である事が判明した。

 高麗とは918年から1392年まで朝鮮半島をほぼ支配していた王国である。そして高麗瓦とは、浦添城内の建物に葺かれていた、沖縄最古と考えられる瓦である。

 まさか本物の「癸酉年高麗瓦」とは思いもよらなかったので、驚き感動した。
ボールペンと比べると原寸大の文字の大きさが分かる(写真@参照)。


瓦(25)ボールペン.jpg
写真@ 筆者が入手した高麗瓦の一部。「癸酉年高麗瓦匠造」の「高」の部分が見える。
 

 これまでに明らかになっていた「癸酉年高 麗瓦匠造」の銘文は、押し型で二行になったもので瓦面には、銘文が反対に現れているが、難しい漢字を緻密な筆致で今に伝えている(写真A参照)。


DVC00177.押型25jpg.jpg
写真A 高麗瓦の逆文字押型銘を再現したもの(浦添ようどれ発掘調査現地説明会資料より)
 

 実物を手にし、原寸大の文字を直に見るのは初めてだったので、宝物を見るような思いがした。

 「癸酉」の年に高麗の瓦工が造ったという意味だが、その「癸酉」がいつなのかということについては諸説あったが、筆者は舜天王代の1213年の癸酉年であること。
 
 そして首里城からも癸酉年高麗瓦が出土していることから、舜天王のころすでに首里城は王城であったことを解明した『琉球に新文化を伝えた古代瓦』(沖縄タイムス 2002年10月9日〜10日投稿)。

 ここで私が特に注目したいのは「高麗瓦匠造」とは、単なる高麗の瓦工ではなく、写経などで文字を書き慣れた僧侶であったに違いない、ということである。

 当時の僧侶は宗教活動だけでなく、暦法、医術、算術、または造営技術など各分野にわたる学問を修得していたことを考慮すれば、寺院や神社・仏閣の造営で瓦の製法も会得していたことは十分考えられる。

 日本の瓦葺き建造物は六世紀の飛鳥時代、寺院造営等で使用されており、仏教伝来とともに造営技術も百済、高句麗、新羅等からの渡来人によってもたらされた影響もあったであろう。
 
 沖縄も朝鮮との交流は古くからあった事がうかがえる。唐(888〜903年)のころ、中国の人(閩人の周偶)が浙から閩に帰りの途上、海上で暴風に遭い、琉球に漂流してきたとき、琉球の人は中国人が遭難したことを憂い、心を痛めていたという。

 当時の琉球の状況を記した「嶺表録異記」によると琉球の人は皆、麻布を着て礼があり、競って食物を持ってきて釘や鉄と交換を希望していたと伝えられている(「沖縄の歴史と文化」松本雅明著より)。
 
 新羅の客は沖縄の言葉を半分理解していたというから、朝鮮との交流は唐の当時からあったことが分かる。

 このような歴史的背景から考えても舜天王の代(1187〜1237年)に高麗の瓦師が何らかの経緯で沖縄に来ていたことは十分考えられる。

 ただ高麗の瓦匠といっても「癸酉年高麗瓦匠造」の文字を見れば、単なる瓦工でないことは確かであろう。

 文字の風格は、当時、僧侶でなければ書けなかったに違いない達筆な筆跡である。

 この高麗瓦匠造の文字瓦を手にとって眺めていると、沖縄に高度な文化・技術を伝えた高麗瓦師の人物像や事績の事が想像され、親しみが感じられる思いである。

沖縄タイムス 2010年10月19日 投稿





琉球史とのかかわり


 温故知新という言葉に親しみを持つようになったのは、自分の生い立ちや、祖先のルーツに関心を持つようになり、そして琉球史に興味を持つようになってからであった。

 それまでは「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」という温故知新の言葉が、それほど身近に感じられるものとは思ってもみなかった。

 過去を理解し新しい事柄を再発見することは、日常生活においても味わい深い言葉であろうと思っている。

 その言葉との出会いは、自分の生い立ちを知るということからの出発でもあった。子供のころは親戚との交流の経験が乏しいこともあったためか、門中についてあまり関心はなかった。

 たまたま八重山出身者から親戚関係について聞かれたとき、郷里で知られている親戚のことを思い出し、そのことを話すことにしている。相手は親戚や門中の誰かを知っていることが多いからである。

 私の場合、姓が宮野であるから本土の出身と思われてか、よく出身地について聞かれることが多い。

 宮野に変わったのは二十代の半ばであった。変更した経緯については、省略して、ここではルーツを知る手がかりとして系図から、琉球歴史に興味を持った経緯を中心に述べたい。

 幸いにも門中の系図が親戚の家にあり、その系図を見ていると琉球史への興味が自ずから感じられるものであった。

 系図は昭和16年、伯父にあたる安村賢位が70才を記念して作成したものであった。彼は当時、石垣町会議員であったことが記録されている。

 私が誕生したとき、男の子であったので私の名前も系図に書いたと云われている。系図には男だけが書かれており、女子は一人も書かれていない。

 他の門中はどうなのか知らないが、当時そのような習わしがあったのかもしれない。私の名前も書かれているので、書き写したものを譲り受けることにした。

 その系図によると、門中は「夏林(かーりん)姓」と云われ、阿麻和利の乱で活躍した大城賢雄が元祖で、その子孫による一族で、賢の名が代々受け継がれている。私もその一人である。

 親戚の話によると沖縄本島では夏姓といわれているが、先島の八重山では林の一字を多く入れて夏林姓と呼ばれているとのことであった。

 大城賢雄の子孫と八重山との関係は、系図によると在番、仲本親雲上(ぺーちん)が八重山での最初の夏林姓の祖となっている。

 仲本親雲上は大城賢雄から数えて7代後の人で、当時、親雲上といわれていた。彼が在番として沖縄本島から八重山に来たものであった。

 仲本親雲上は八重山で4人の男の子をもうけた。その子孫が仲本家から分家して広がったと云われている。祖父の安村家も仲本家からの分家であった。

 夏林姓系図によると大城賢雄は、英祖王の次男、湧川王子の子孫で、大城賢雄までの系統が系図で明らかにされている。

 八重山の夏林姓系図では、大城賢雄の死後、賢雄から数えて四代までは記録がなく空白であるが、五代、儀保親雲上賢続から系図は明確に記録されている。沖縄本島の夏姓系図を調べれば、空白の部分は埋まると思われるが、課題として残されている。

 八重山に在番として赴任してきた仲本親雲上は儀保親雲上賢続の孫であった。

 私の祖父、安村賢叶は、在番仲本親雲上賢親の四男の系統で、続柄は嗣子となっているので、親戚から跡取りとして迎えられたようである。

 系図には続柄の他、役職なども書かれているので、それを見ていると、先祖のルーツが見えてくるような思いがする。

 また、夏林姓の系図によると、大城賢雄の先祖は恩金松兼王が一代で、英祖王やその子孫の湧川王子、今帰仁城主、伊波按司、榮野比大屋子など琉球史では馴染みの名前が代々続き、賢雄は十五代となっている。

 それらの名前を見ているだけでも古琉球への興味が親しみを持って身近に感じられてくるのを覚えるものであった。

 琉球史への興味は、このように門中の系図を見ることがきっかけであった。

 八重山の仲本家には大城賢雄が阿麻和利の乱で活躍した時の状況を伝える『夏姓大宗由来記』の原本が残されている。

 この由来記は、私が習作として自費出版した『沖縄の夜明け 第一尚氏王統の興亡』でも紹介した。

 「沖縄の夜明け」としたのは、察度王の時代に中国との交易が拓かれ、留学生を中国に派遣し、沖縄に文字文化がもたらされたこと。

 そして尚巴志によって三山時代は統一され、中国との交易を東アジアにおける国際的なものとして認知されるまで高め、大交易時代の拠点を確立したからであった。

 そのことは万国津梁の鐘銘で明らかなように、交易を国是とした平和な国造りを目標としていたことなどである。

 一方、尚巴志王統の時代には劇的な動乱が何回かあった。志魯・布里の乱もそうであるが、もっとも有名なものは阿麻和利の乱であろう。

 当時、大城賢雄は、武勇に優れ、戦に際しては鬼大城といわれる程の強者であった。そのことは『夏姓大宗由来記』で詳細に伝えられているとおりである。

 このように尚巴志王統のころ、激動の時代であったが、琉球国をまとめ、文字文化を発展させ、交易を国是とした国造りの基礎を築いた功績は大きいといえる。

 そのようなことから尚巴志王統興亡の時代は、琉球国の歴史のなかで新しい段階へ急速な発展を遂げた夜明けにふさわしい時代であったと思う。

 しかし尚巴志の功績は琉球史のなかであまり評価されていない。祖先を大切にする習慣はあるものの、琉球史に偉大な業績を残した尚巴志の墓が現在どこにあるのか知っている人は少ないだろう。

 尚徳王の代までは首里城近きに天山陵として大切にされていたが、金丸のクーデターの際、破壊されるのを避けるため子孫によって秘かに読谷村の伊良皆(国道58号線沿い)の森の茂みに移されている。

 そういうわけで尚巴志王統の興亡に視点をおいてまとめたものであった。

 『尚巴志王統の興亡』をまとめるとき、首里城の起源について、どう解釈したらいいのか、そのころからの疑問であった。

 伊波普猷や東恩納寛惇は、浦添城から首里城に遷都したという遷都説である。

 しかし眞境名安興・島倉龍治共著の『沖縄一千年史』は、首里城が舜天以来、歴代国王の居城であったと述べている。

 内容は正史の中山世鑑や球陽と同じである。ただ論証はなく二行程度しか記述されていない。

 その他の沖縄の歴史書は、ほとんど皆、浦添からの遷都説をそのまま受け継いだと思われるようなものが多い。

 だが『首里城の起源を探る』で述べたとおり、正史や『おもろ』をよく検討してみると浦添からの遷都はなかったという結論を得ることができた。

そのことの検証を自分なりに試みたものである。

 遷都説を唱える伊波説や東恩納説とまったく異なるが、両歴史家の書物はテキストのようなものであることに変わりはない。ただ遷都説に関する限りは見解を異にするものであり、また、その他各説においても疑問に思われる説は是々非々の立場で検討されるべきであろうと思っている。

 『首里城の起源を探る』というテーマまで辿り着くことができたのは、系図から琉球歴史に引かれ、興味を持ってきたことがきっかけであった。

 そして私にとって温故知新の「故きを温ねて新しきを知る」ということは、琉球史との関わりを一層強める支えとなり、今では身近に感じられる言葉の一つとなっている。









察度 黄金伝説の背景


私は「森の川」を見た後、「黄金庭」を訪ねてみた。黄金庭は大謝名の高台にあり、遠くには海が見える場所にある。

黄金庭は小さな遺蹟であるが、信仰に訪れる人は後を断たないようで、祠の中には線香のたかれた後が残っていた。

祠の中にはテーブル珊瑚と思われる丸い燭台の格好をした石が中央に安置されている。

黄金庭の周りにはガジュマル、モクマオウ、クバなどが生い茂り、その合間にユリの花が満開に咲いていた。

木陰を流れる風は、高台のためか、ことのほかさわやかに感じられる。

私は「黄金庭の由来」の説明板を読みながら、察度がこの地に黄金宮という楼閣を造ったころのことを想像してみた。

伝説の内容は次のとおりである。

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勝連按司に美しい姫がいた。才色兼備といわれ、その評判は高まり、噂を聞いた各地の若按司たちから結婚の申し込みが多かったが、本人がすべて断っていたという。

奥間大親の息子(察度)は、そのことを聞き、ある日、勝連城に行って、門衛に勝連按司に面会を申し入れた。
 
門衛は「お前はどこから来たのか、乞食みたいな者が、勝連按司に何の用があるのか。飢えて食べ物がほしいのか」と云ってあざ笑っていた。

それでも若者は動こうともせず、
「自分は乞食ではない。また、食物に飢えているわけでもない。ただ按司に会って相談したいことがあって来た。さっそく取り次いでほしい」といった。

門衛は仕方なく按司に、そのことを伝えると、按司は怪しく思いながらも、若者を庭に通させた。

察度は「自分は不肖の者ではあるが、勝連按司に美しい姫がいると聞いてきました。姫を妻に頂きたいと思って、はるばると訪ねてきました」といった。

すると按司をはじめ、男女の従者たちも、笑いものにして若者を追い出そうとしていた。

そのとき、物かげから見ていた姫は、若者が国王の冠を戴くがごとくに見えた。徳が感じられ、物怖じしない悠然とした態度は常人の相ではない。決して乞食や飢えた物ごいではない。そう思った姫は、両親に「この人こそ、自分の夫に足る人です」といった。

按司は大いに怒って「前に名卿貴族(若按司たち)の求婚を断わって、乞食のような者と結婚しようというのか。このような者に嫁がせたら、世の笑いものになる」といった。

それでも姫は「この人を見ると容貌や、衣服は卑しい類いといえども、実は常人とはちがいます。将来は、必ず大福がある人です。もしこの人と結婚を認めないならば、自分は一生結婚はしません」といった。
  
按司は日頃から娘の才智に信服していたから、あえて強情を張らず「お前が、それほどまでいうなら、ウラナイで吉凶を決めよう」といって、さっそくウラナイをさせた。

その結果、王妃の兆があったので、按司は大いに喜び、娘を許し、察度に「お前は吉日を選んで、これを迎えよ」といった。

察度は大いに喜び、吉日を選んで、姫を迎えに行った。

按司は察度の貧苦を哀れみ、たくさんの品々を与えたが、察度は喜ばなかった。妻に「お前は富貴に生まれ、華美になれているが、自分は貧賤である。自分に対して礼にはならない」というと、

妻は「あなたの命令に従います」といって、ことごとく持参の品々を返し、察度にしたがって草屋に来た。

ところが垣は壊れ、軒は傾き、雨漏りのする家で、清貧にたえない状態であった。しかし、燭台の器は縦横一尺余りで、上の方は松ヤニが積もっているが、これをよく見ると黄金であった。

妻はおどろいて「これはどこから持ってきたのですか。また、なんで燭台にしているのですか」と尋ねた。

察度は「このような物は自分の田の周りには一杯ある」といって、妻を連れて行って見せた。

なるほどそこには金銀が一杯あったので、夫婦は非常に喜び、それを拾い集めて貯えた。その地に楼閣を建て、黄金宮(こがねみや)と名付けた。今の大謝名の黄金庭がその跡である。

当時、牧港は橋がなく、南北の人々は黄金宮の前から往来していた。察度は通行する人たちを見て、飢えた者には食を与え、寒くしている者には衣を与えた。

また、大和の商船が鉄を積んで牧港に入港すると、鉄を全部買取り、農耕する者に鉄を与えて農具を造らせた。百姓たちはたいへん喜び、察度を見ること父のごとく、ついに推して浦添按司とした。

境内大いに治まり、遠近みな慕う。そのとき西威王は薨じ、世子は五歳であった。

重臣のなかには世子を立てようとする動きもあったが、人々は、先の国王の政治を観ると暴虐無道であったと思いながらも、臣民はあえてなにも云わなかった。

しかし、恨みは持っていた。それなのに今、また、幼い世子を立てようというが、それでは国が治まるはずがない。

浦添按司察度は仁の人で、誠に民の父母とするに足る。ついに世子を廃して、浦添按司を推戴して国王とした。

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以上が黄金伝説の内容である。

ところで勝連按司の美しい姫を妻にもらい受ける場面で、察度のみすぼらしい格好は、乞食にたとえられ、嘲笑されるほど貧しい青年として強調され、それに比べ、勝連按司は豪族らしく、その娘は姫といわれていた。

つまり貧しい察度と、勝連按司の娘との関係が、ことさらに強調されている。実は黄金伝説のポイントはこの辺に重要な背景が埋もれているものと解したい。 
        
系図によると、勝連按司というのは、英祖王統の二代目、大成王の五男が勝連王子として、勝連按司になっていた。その長女が察度の妻になった真鍋樽金である。

勝連按司の兄は国王の英慈王であったから、勝連按司の姫は国王の姪であった。

察度は、国王の姪に当たる姫と結婚したということが、黄金伝説では秘められている。

そして雨もりのする傾きかけた我が家に妻を連れて来たところ、妻は松ヤニでかぶさっている燭台を見て、黄金であることに気付き、驚いて尋ねると、察度は「自分の田の周りに、このような物はいくらでもある」

といって妻を連れて行くと、金銀が一杯あったので、二人は喜んで拾い集めたと伝えられている。

ところが何故、察度の田の周りに黄金があったのか、という疑問が残る。 
      
伝説は、ある事実を美化するために考えられたものと解したい。だとすれば、ある事実とは何か。ということになろう。

何らかの事実があって、それが美化され、人々の憧れを心像に与えるロマンであったり、現実には果たせそうもないことが、ある日、突然実現することによって、伝説は成り立つのであろう。

つまり奇跡ともいえる場面の設定が必要要件であり、奇跡的なことが現実的に実現されることによって、感動を与える美談として、素直に語り伝えられたのではなかろうか。
  
結婚する前の察度は、毎日狩りや、釣りに夢中になり、農耕は怠け、どこで寝泊りしているのか分からないほど、放浪していた。

ところが田の周りには、金銀が一杯あったという。そこが伝説たるゆえんであろうが、伝説はある事実を美化したものとすれば、必ずしも本物の金銀でなくても、それに相当する貴重な品々と解することができよう。 

では何故、そこに貴重な品々があったかという謎であるが、察度の父親の奥間大親は、その村の有力者であったから、舶来品は奥間大親の代から察度の家にあったことも推測される。

しかし、何よりも、そこは当時交通の要所であったという事実が伝説でも挙げられている点が重要である。

察度は後に、その地を霊地として金宮として楼閣を建てた。

そこは彼が国王になるまで浦添按司として富を築き上げた場所であり、また、妻と二人で富を貯えた青春の思い出の地でもあったことが伝説から伝わってくる。

「人々が行き交うところに品々が集まる」の例えのごとく、通りがかりの人々は、察度の所有している貴重な品々を見て、物々交換をするためにいろいろな品々を持ち寄って来て交換をしたことも推測される。

当時、牧港は橋がなく、南北の人々は金宮の前から往来していた。察度は通行する人たちに衣食を与えたり、牧港に入港する大和の商船から鉄器を買い集め、農耕する者に鉄を与えて農具を造らせた。そのため百姓たちからたいへん喜ばれ、察度を見ること父のごとくであったと伝えられている。

そして、ついに推されて浦添按司になったと伝えられているが、伝説であるから事実はかなり美化されていよう。

人々に衣食や、鉄器を与えたというのは、ただで与えたものではないと思う。物々交換によって与えたことが考えられる。

この場合、相手に満足してもらえるような好意的な方法で交換されたため、人々から敬愛されたにちがいない。

また、人々が行き交う所といっても、街のように人々が往来する所の意味ではなく、あくまでも南北に通ずる交通の要所としての場所であり、静かな所であったと思われる。
 
察度は牧港に入港して来る大和の商船から、鉄器類を買い集める財力があったことを黄金伝説は伝えている。その背景に奥間大親や、勝連按司の影響があったことは推測される。

勝連按司の兄に当たる英慈王が死去したのは1313年。その次に即位した玉城王と察度の妻は従兄弟同士であったという関係も伝説の背景に埋もれている。

玉城王は在位22年、44歳のとき死去した。

玉城王の次に西威王は10歳のとき即位した。

そのとき察度は17歳だったから、西威王は察度よりも7歳年下だった。

察度が結婚した年は、いつなのか不明であるが、もし17歳から察度が国王に即位した30歳までの間とすれば、西威王の在位中である。

西威王は在位12年、22歳の若さで逝去した。

西威王の次に察度が中山王に即位しているから、察度にとって西威王在位中の12年間は、黄金伝説にみられるように鉄器類を買い集め、その普及を図ることによって信望を高めた時代と一致する。

察度は少年時代は森の川で過ごし、青年時代は黄金庭を拠点に活躍したことを示しており、これらは、伝説の基底ともいえる場所であったことを伝えている。

しかし、察度は、そのようなことよりも常に夢と希望を大切にし、豊かな想念によって崇高なロマンに昇華させ、国王にもなれたことを伝説として伝えたかったのではないだろうか。

黄金庭は、今では小さな空間であるが、察度が青年のころは、遠くには海を眺め、森と川の音が聞こえる豊かな大自然の空間があったにちがいない。

黄金庭の周りは静かな住宅街になっているが、高台のためか、空気はさわやかで、木陰を流れるそよ風は、心地よかった。黄金庭の裏の方は大謝名橋に流れる小川があり、その斜面の木陰には小鳥たちの元気のよい鳴き声が、小川の音に負けないように響いていた。

宜野湾市では、宜野湾はごろも祭りを催し、「察度王歴史絵巻行列」をはじめ、「羽衣カチャシー大会」、エイサー、踊り等で祭りを盛り上げることにしている。


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